印鑑の競争が激化してきた。
印鑑の競争が激化してきた。
銀行は、安宅問題を処理するための、7人からなる特別チームを編成しました。
当時副頭取だったIさんをヘッドにした、本部の主要セクションが参加する緊急チームでした。
調査部から東京の融資第一部に異動になっていた私も、そのチームに加わることになりました。
ついに8月7日、毎日新聞が朝刊で「安宅産業、苦境に米の子会社600億こげつく」というスクープを飛ばしました。
これにより安宅産業の経営危機が日本中に知れ渡ることになったのです。
当時、安宅産業の取引企業は3万5000社にのぼり、取引のある金融機関も200を超えていました。
安宅が倒産すれば多くの企業の連鎖倒産は避けられず、何万人という労働者とその家族が路頭に迷うことになります。
しかも、安宅は国と国をまたいで取引を行なう商社なので、影響は日本国内にとどまりません。
処理をひとつ間違ったら、日本の商社全体の信用問題になりかねないという認識が、銀行トップにも、政府・日銀にもありました。
結局、好余曲折を経て、1977年3月1日、安宅産業は伊藤忠商事が吸収合併したのです。
これによって、世界的な混乱の発生は未然に防ぐことができましたが、これで問題がすべて解決されたわけではありません。
伊藤忠商事は安宅産業をまるまる吸収したわけではありません。
当然のことながら、安宅産業の良い部門しか持っていってくれませんでした。
残された部門を銀行が引き受けて商売するというわけにはいかないので、別会社を設立して、そこに事業を移管するということをやりました。
そのために、銀行内に融資第三部というセクションが新設され、私はその次長に就任、のちに部長となって安宅の不良資産の処理に奔走しました。
最近の例で言えば、産業再生機構のような仕事をやったのです。
一人で深川の材木屋さんに行き、安宅の在庫を引き受けてくださいとお願いして回ったこともありました。
また、アメリカや山口、福岡などの鉄鋼会社も回りました。
革の長靴を履いて炉の前に立って、先方の担当者と渡り合ったこともある。
一切合財を処理し終えたのは1980年も半ばになってからでした。
その問は、とにかく夢中で仕事をしました。
多くの企業の再生、問題を内包した不動産の開発・処分等のため懸命に知恵を絞り、これだと決めれば果敢に実行しました。
もう銀行を辞めたいなど、まったく考えませんでした。
自分たちが日本経済を守るのだという使命感もありました。
支店長を務めたのは、安宅問題にも一区切りがついた1985年4月から翌年4月まででした。
たった1年の経験でしたが、この1年間はほんとうに楽しかった。
支店長になるに際して、重圧は感じました。
何しろ、大正区支店以来、実に4年ぶりの支店勤務です。
正直に言って、何も分からない。
やれることと言えば、相手が誰だろうが、言いたいことは言わずにいられない性分ですから、本部にいる部長に注文をつけたり、文句を言ったりすること、あとは顧客訪問くらいです。
できるだけのことはやろうと思って、顧客訪問はよくやりました。
そんな支店長の下で、みんな、よく働いてくれました。
ど素人の支店長がやってきたので、自分たちがしっかりと仕事をしないといけないと思ってくれたのでしょう。
ありがた融資第三部のあと、丸ノ内支店の支店長に着任しています。
Nさんというと「本部の人」という印象があるのですが、支店長としてはどうだったのですか。
今もやっていると思うのですが、当時、銀行では毎年度、半期ごとに、優秀な成績を収めた支店に対する業績表彰を行なっていました。
このとき、丸ノ内支店は上期、下期の両方で表彰を受けることができました。
私は1年だけの支店長だったので、支店長を務めていた間じゅう、表彰を受けることができたというわけです。
とても光栄なことでした。
もちろん、私の力というよりも、前任者の努力があってこそ、部下の人たちもほんとうにがんばってくれました。
それに加えて、何と言っても、毎日が楽しかった。
支店長はやはり一国一城の主ですし、本部のうるさい連中もめったに来ません。
家族的な雰囲気の中で、みんな「支店長、支店長」と慕ってくれました。
仕事のときだけでなく、土曜日や日曜日には、やれバレーボールの試合だとか言って、しばしば応援に駆り出されました。
支店には地方から出てきて独身寮に入っている女性たちが数多くいて、彼女たちはバレーボールが強かったのです。
スポーツに関して言えば、丸ノ内支店時代には、もう一つ忘れられない思い出があります。
この年、私が熱烈なファンである阪神タイガースが4年ぶりに優勝したのです。
優勝決定戦のときは、仕事をしながら、「今はどうなっているのか」とハラハラしていました。
丸ノ内支店には、阪神ファンはほとんどいなかった。
ボスに気を遣って、いろいろなところからほぼリアルタイムに試合の情報を入れてくれ、そのたびに一喜一憂していたのを覚えています。
いや、私自身にそんな意識はまったくなく、まさか自分が取締役になるとは思ってもいませんでした。
そのため、取締役就任にあたっては、ちょっとした出来事もありました。
取締役の内定は、当時会長だったIさんから受けました。
その報告を、安宅処理をしていた際の担当役員だった巽副頭取にしたところ、「君、銀行の株式をいくら持っているか」と尋ねられたのです。
当時、取締役になるときには、最低でも1万株ぐらい保有しているのがふつうでした。
丸ノ内支店長の次は、企画部長.
ところが、私は銀行の株を6000株ほどしか持っていなかった。
そこで、そのとおり正直に答えたら、「それだけか」と言われてしまった。
しかも、理由が理由だったのです。
その5,6年前のことです。
当時、D製紙に出向していて、のちに副頭取になった玉井英二さんから、D製紙がつくったゴルフ場の会員にならないかと勧められました。
玉井さんは、私が入行以来、ずっとお世話になってきた先輩です。
しかも、新会員募集は、D製紙再建の一環として行なわれたものでした。
私は即座に「買います」と答えましたが、困ったことに、会員権を買うだけのお金がなかった。
そこで私は、持っていた銀行株のうち、3000株ほどを売ってしまったのです。
まさか、自分が取締役になるとは夢にも思わなかったし、会員権を持って、好きなときにゴルフができるようになるのは、とても魅力的だった。
会員権の購入資金を捻出するほうが、自分にとってはずっと切実な問題だったのです。
そう説明すると、巽さんからは、「何ということをするのか。
ゴルフのために、銀行の株を売るとはひどいことをするものだ」と叱られました。
それでも、取締役にしてもらったのだから、感謝しています。
そうです。
部長着任の半年後には、平和相互銀行との合併。
すでに決定していたことではありますが、実際の合併作業というのは大変なことでした。
企画部長時代最後の時期、1990年には、S銀行を大きく揺るがす事件に直面してしまいました。
I事件です。
融資や、絵画・骨董品取引などにより、3000億円とも言われる巨額資金が流出した経済事件です。
この事件では、当時のI社長河村良彦氏と、常務の伊藤寿永光氏、不動産管理会社社長の許永中氏が商法の特別背任罪などの容疑で逮捕・起訴されました。
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